東京でひとり暮らしを始めてから本を読む時間が増えました。
長野から出てきて2年。
にぎやかな街の中で私の部屋だけは静かです。
夜スタンドライトの下でページをめくる時間は今の私にとっていちばん落ち着く時間になりました。
若いころの読書は物語に入り込む読書でした。
登場人物と一緒に泣き笑い最後のページを閉じたあともしばらく余韻にひたる。
それが「味わう読書」だったのだと思います。
けれど最近ふと気づいたのです。
私は本を「味わっている」のだろうか。
それとも「集めている」のだろうか。
文章を集めている感覚
ページをめくっていて心にひっかかる一文に出会う瞬間があります。
めめこの言葉は覚えておきたい
そう思うと私はその文章に線を引きます。
ときには手帳に書き写します。
まるで落ちている小さな宝石を拾い集めるように。
物語全体よりもひとつの文章。
流れよりも一行の言葉。
読み終わったときに残るのは



いい文章を見つけた
という達成感です。
その満足感はひとり暮らしの部屋の中でじんわり広がります。
そのとき私は思うのです。
私は読書家というより文章収集家なのかもしれないと。
動画でも同じことが起きている
本だけではありません。
動画を見ているときも同じことが起きています。
話の流れよりも心に刺さるひと言。
解説全体よりも「あ、これだ」と思うフレーズ。
私はそこを切り取って自分の中に保存します。
まるで自分の心の棚に言葉を並べていくように。
動画を最後まで見終わったあとに残るのは「理解した」というより「いい言葉を持ち帰った」という感覚です。
これもまた収集です。
味わっていないのだろうか?
ここで少し不安になります。
私はちゃんと味わえているのだろうか。
ただブログのネタを探しているだけではないのか。
知識を増やして安心したいだけなのではないか。
学ぶことの意味を考えるようになりました。
健康のこと仕事のことこれからの生き方。
まだまだ未完成でだからこそ学び続けたいと思っています。
その気持ちが「収集」という形になっているのかもしれません。
でも最近こうも思うようになりました。
収集するということは、
それだけその言葉に心が動いたということ。
何も感じなければ線は引かない。
何も響かなければ書き写さない。
収集は無関心ではできないのです。
人生後半の読書は変わる
若いころは物語の世界に逃げ込むように読んでいました。
忙しい毎日の中で別の世界に行くための読書でした。
今は少し違います。
今の読書は「生きるため」の読書です。
自分を整えるため
- 考えを深めるため
- 言葉を磨くため
- 未来を描くため
だから私は言葉を拾うのかもしれません。
人生後半はこれからの時間が限られていることもどこかで感じています。
だからこそ心に残るものだけを大切にしたい。
全部を抱えるのではなく、
光るものを選んで持ち帰る。
それは年齢を重ねたからこその読み方なのかもしれません。
ひとり暮らしだからこそできること
東京のひとり暮らしは自由です。
読む時間もやめる時間も自分で決められます。
夜に本を開いて、



あ、今日はいい文章を拾えた
と思える日。
それだけで一日が報われた気持ちになります。
誰かに見せるわけでもない、
誰かに褒められるわけでもない。
けれど自分の中の棚にまた一つ宝物が増える。
それは静かな達成感です。
文章収集家でもいい
もしかしたら私は、
読書家ではなく文章収集家なのかもしれません。
でもそれでもいいと思えるようになりました。
集めた言葉はいつか誰かに届くかもしれない。
ブログを書くとき背中を押してくれるかもしれない。
落ち込んだ日自分を支えてくれるかもしれない。
収集した言葉は私の「身体資本」ならぬ「言葉資本」になっているのだと思います。
50代の読書は、
味わうだけではなく選び取ること。
拾い、集め、心の中で再編集していくこと。
それが今の私の読書です。
今日もまた本を開きます。
物語を追いながらきっとどこかで立ち止まり、
ひとつの文章をそっと拾うでしょう。
そして静かに思うのです。
「今日もいい収穫だった」と。









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